Better Than I've Ever Been

日々思ったことと、その他社会について思うことを書きます。その他発達障害について自分が調べている治しかたについて書いていきます。@harada0808

~君~ちゃんとは言っているか?

芦田先生のツイッターでの言葉が気になったので、それについて考えてみた。まず芦田先生のツイッターでの文を僕なりの解釈を加えて引用してみたいと思う。

近代化は、いま・ここを相対化することだった。それは社会的には家族から個人が自立することをいみしていた。近代的な自由とは地番の解消だったわけです。都市化、高層ビル化、超高層化とは地番の解消そのものです。情報化とは建築論としては超高層化です。→地番の解消。知識のローカリティーを「徹底的に」相対化する。→知識の地番を解消する。

これについて僕なりの考えをまとめたいと思う。

知識の「ローカリティ」を「徹底的」に相対化する。
近代化は家の地番の解消で情報化もそういうことだと芦田氏は言っていると僕は解釈するけど、それは一つ一つの言葉でさえ起こっている。一つ一つの言葉の地番が解消されている。一つ一つの言葉のローカリティが相対化されている。

言葉の意味の「ローカリティ」の相対化とは一つ一つ言葉の意味が「普遍的」になってしまっている。一つ一つの言葉の意味の「特殊性」がなくなってしまっている。それは人に対してさえ起こっている気がする。

特殊ではない知識やものなどないような気がする。
この発言は「一般的な、」人が言っている発言ではなく「僕、個人」の発言なんだ。
「僕」がいっている。「僕」の考え。
こういうように発言、知識には発言者がいるから、完全に普遍的になることはないはず。この発言も「特殊。」

買ったテレビ、聴いている音楽だって。「僕が」買った、「僕が」聴いている、テレビ、音楽なんだ。
僕の家にあるテレビはどこにいっても「テレビ」ではなく、「僕の家にあった」テレビなんだ。
すべてのもの、知識、言葉の「地番」が解消されている。
「地番」は解消されるのではなく、

「地番」は、「でも必ず、」ある。

僕の家にあるテレビは、どこに行ってもテレビではなく、「僕の家にあったテレビ」である。ものや、言葉、知識には発言者や所有者が必ずいるから、完全に普遍的になることはない。

つまり、絶対、「特殊」なのである。

そして、僕はやはり言葉やコミュニケーションまでが変わっているように思うのです。「コミュニケーション」(まで)が変わっている。それは相手が変わっている気がする。その人や「個人」に対して言うのではなく、多くの人に言っていたりする。これはなぜか一対一のコミュニケーションでもそんな風に言っている。

コミュニケーションで発する言葉、コミュニケーション自体が普遍的になっているような気がするのです。

~君~ちゃんと個人の名前を呼んでコミュニケーションすることが少なくなったように思うのです。

こういうことによって知識や言葉のローカリティが本当になくなっているように思うのです。

言葉や知識、コミュニケーションは僕の考えでは恐らく特殊です。

これらが特殊であるとわかったほうが知識や言葉、コミュニケーションなどのローカリティが取り戻せるのではないか、と思います。