Better Than I've Ever Been

日々思ったことと、その他社会について思うことを書きます。その他発達障害について自分が調べている治しかたについて書いていきます。@hda0808

東浩紀に告ぐ 動物化するポストモダンについて

動物化するポストモダンを再読してみた。もとからアニメをそんなに見るわけでもないし、アニメ文化について、そんなに興味がなかったので、よんでもあまり覚えていなかった。

 

ただ、なんとなく再読してよんで気づいたことがある、この本はかなり間違っている。こんな本が売れて、みんなに知識の前提として共有されていいわけがない。

まずこの本のタイトルになっているポストモダン動物化という議論だが、これは本当にそうなのだろうか?ポストモダンは本当に動物化しているのだろうか?

 

東はデータベース的消費という消費者側の視点や、データベースによる作り手側の作成の構造などについていっているがこれは前者と後者について、それぞれ議論すべきなので、わけて考えようと思う。

まず、前者について東はオタクたちは動物的にデータを消費するといい、また現代では倒錯的なイメージで性器を興奮させることに単に動物的に慣れてしまっているという、萌えや猫耳という刺激だけで性的に興奮するように訓練されているとまで言っている。

確かにそういったことはある、またはあったと思う。

しかしだ、本当に現実はそういった刺激と反応図式のようになって萌えに興奮したりしていたのだろうか?または、萌えというデータだけを動物的に消費しているだけなのだろうか?おそらく現実はそんな風になっていない。

この人はオタクたちのためや、オタクのことを考えているという風な態度をとっているが、この本に関していえば、オタクたちをかなりバカにしているだけなのだ。

 

これが前者についての僕の感想である。

 

そして後者についてはデータベース的な作り手側の構造の分析についてである。これについては筆者は僕が先にいったような前者と後者のように議論を分けて考えるべきなのに、なぜかうまいこと何も言っていない笑

 

僕の言ったような後者の議論でいえば、作り手側のデータベース的なものの作成など当たり前である。アニメが始まったときは小説や現実などのデータベースから発想を引き出していただろうし、刺激のない状態からものなどつくることはできないとひろゆきさんも言っていた。これは当たり前のことなのだ。そしてこれは、とても人間的な思考方法である。人間の記憶力や発想力に依存するのでとても人間的すぎるのである。

 

おそらく、これは僕の単なる思い込みなのかもしれないが、東はどうしても現代を動物化していると思いこみたいのだ。人を馬鹿にしているだけとも言える。

 

コピー作品のアウラうんぬんについてもよくわからない議論を展開しているが、コピーかオリジナルかなんて、アニメや漫画の世界ではだれの目にも明らかだよ大馬鹿野郎と思う。

 

僕なりの理解ではあるがアウラという議論は複製が簡単であったり、贋作が写実的に簡単なものの芸術の世界で必要になってくる議論だと思う。

 

オリジナルとコピーという議論に関係するような話ではあるのだが現代の二次創作文化について知りたいのであれば、ローレンス・レッシグのREMIXを読めば良いと思う。RO文化RW文化として現代のYOUTUBEで起こっている現象などを理解したほうがよっぽどわかりやすいし、二次創作で起きている現象についてちゃんと把握することができる。

 

また大きな物語、小さな物語についての議論もかなり間違っているようにおもえてならない。オタクたちにもともと大きな物語なんて存在しないのでは?と思う。大きな物語に乗れないからこそ、オタクをやっているのではないかと思う。つまり、オタクと呼ばれる人たちが出現しだし、増えていったので大きな物語が必要なくなったため、データベースから大きな物語がなくなったのではないか、ということである。

それについて東はデータベースの深層には大きな物語がない以上データベースは意味をあたえてくれない。といっている。かつてのアニメに大きな物語が存在し、それを共有することがあったとは思う。ただ、アニメ文化が広く、一般の大衆に普及し、オタクと呼ばれる人たちが増加しだした現在、彼らに大きな物語は必要がなくなったためアニメや漫画では大きな物語がなくなっといえるのではないだろうか。

 

すべて読み直したわけではないが、僕からこの感想を言えば、これもまたしっかりと読んだわけではないので適当なことは言えませんが、まさに東大話法なのではないか?と思う。(東大話法という本があるのです)

 

またじっくりよみたいと思いはしないが、この本はんなわけねぇだろということがいたる所にある、この本は現代が進むにつれて、話している内容がどんどん色あせてしまっているし、そうそうに忘れてぶん投げてしまったほうがよい笑

 

ポストモダン動物化しているという議論はあるのではあるだろうけど、この本ではその真偽はわからないと思う。ただ、である、動物化という定義は僕は衝動性が強くなってしまっているような状態や、パブロフの犬のような刺激と反応図式になっている状態だと思う。依存状態を動物化と呼ぶのは結構はてな?である。動物は依存なんてあまりしないように思うからだ。サルはするかもしれないが、それも霊長類的ではあるかもしれない笑

このことについては、自分達がアニメや漫画をみるときに引き寄せて考えてみるとわかるかもしれない。オタクであれ、なんであれ、現代の人々がアニメなどを見るときにただデータベース上の記号のようなものを消費しているだけなのだろうか?ある特定の刺激に特定の反応をしているだけだろうか?このある刺激にある特定の反応をするということがパブロフの犬のような刺激と反応であり、動物的であると思うが、ここのこのシーンが~だから萌える、このシーンが~だから気持ちいいという、こういった動物的というよりむしろ人間的といえる反応を僕たちはしているのではないだろうか?それは脊椎反射的な、ある刺激がくれば、ある特定の反応ではなく、ある刺激の間に人間的な思考が挟まれ、そして、特定の感情、萌えるや気持ち良いという反応を僕たちは示すのではないかと思う。

 

ポストモダン動物化しているという議論について、僕の言っている動物化の定義をあてはめてみれば、Twitterでは、こういった刺激と反応や衝動性が強くなっているという事態が起こっていたと思う。 衝動的にツイートしてしまうということ、ファボやリツイートなどをパブロフの犬のような刺激と反応によって行っているという事態が少し前のTwitterではかなりあったように思う。

 

 

もう読む必要はないかなーと思う。反論がある方はもう一度しっかり僕が再読してもいいので、なにか違うと思うのであればコメントをお願いします。

 

 

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