Better Than I've Ever Been

日々思ったことと、その他社会について思うことを書きます。その他発達障害について自分が調べている治しかたについて書いていきます。@hda0808

ADHD 過集中と虚脱 リラックスすること

ADHDには過集中という症状があります。僕は寝るのをそっちのけで調べものをしたりすることがありました。

 この過集中後におそらく多くの人々が虚脱症状をだしてしまうのではないかと思います。この虚脱状態は僕もよく経験しましたが、つらいというわけではないですが、本当にやる気がでなくてどうしようもない状態になってしまいます。この状態になると仕事や人々と共にする活動をしていた場合、はたから見るととても迷惑な人にうつります。

 僕はADHDの人々はこの過集中状態になるのをさける必要があると思います。そして、過集中状態にはいったらそのことに気づく必要があると思います。そして、過集中状態に入ったらいろいろな方法でリラックスをすることを心掛けるのが良いのではと思っています。

 あるツイートで、過集中と虚脱を受け入れてそれがADHDの特徴であると理解して生きたらいいというようなことを言っていましたが、僕はそんなことはないと思います。ADHDの過集中と虚脱の状態を受け入れて、そのまま生活したとしてもはたから見たらやっぱり迷惑な人です。それでは仕事もちゃんとできるような気が僕はしません。

 ADHDの症状を普通の人がちゃんと理解するのはやっぱり難しいと思います。なんか時々やる気をだすけど、普段はやる気をださないし、なんなんだろうあいつと思われてしまうことが多いと思います。

 過集中というのは僕の経験から言えば、基本的には1日から2~3日です。ただ受験の時など2~3カ月の過集中も経験したことがあります。

 ただその後には絶対やる気がでなくなって虚脱の症状がでました。この虚脱の症状の原因は自分はまだわかっていませんが、おそらく脳が通常の活動よりも過剰に働いて疲れてしまうことが原因なのではと思っています。アドレナリンの過剰分泌が原因かもしれません。

 それとやんばる先生というADHDなどの発達障害をみている精神科医の方のブログ(意味不明な人々というブログです)においてADHDは、記憶があいまいなのですが、

この過集中時の状態を本来の自分と思ってしまうというようなことが確か書かれていました。自分にも当てはまっていたような気がします。(ADHDなどの症状についてよくわかりたいと思う人は一度意味不明な人々というブログを読んでみたらよいと思います)

 過集中は基本的には1日だったり2、3日だったりするのにこの状態を本来の状態と思ってしまっては、いろいろと生活しずらくなってしまうように思います。

 そのためやはり僕は過集中を避けることが重要だと思います。そのため、まず過集中に自分が入ったなと自覚できることがとても重要だと思います。

 また、僕の感覚ですが、過集中の状態は脳が興奮しているような状態になっています。この興奮状態を避けるためにリラックスすることが重要なのではないかと考えるのです。

 リラックスすると思考の抽象度が上がると苫米地先生も本で言っていました。思考の抽象度があがると聞いても意味不明だなと思う方もいるでしょうが、明日やればいっかと思えるようになるようなことだと僕は思っています。

 そして、そのリラックスする方法についてですが、僕は、まず肩の力を抜くことが重要なのではないかと思っています。

 肩の力を抜くためにはまずぎゅっと肩全体に力をいれて脱力してください。過集中に入ったなと自覚することができたなら、まずそれをしてみると良いと思います。

 ヨガなどで自分の体の部分を自覚して体の力を部分ごとに抜いていくという方法もあるのでこれも試してみるといいと思います。

 僕は過集中状態以外の時などでもリラックスすることを覚えることで大分できることが増えたように思います。

この方法は簡単なので、ほかのADHDの方も試してみてほしいです。

自分でもっとADHDについて知りたいことがあるので、効果があったかどうかなどコメントしていただけると助かります。

イギリスの音楽 

最近Boxed inというアーティストを見つけた。GUで流れていたのだけどとても最高だった。調べてみたらイギリス人らしい。

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僕は最近のイギリス音楽が好きなようだ。良いなと思って調べるアーティストのなかでイギリス人がとても多い気がする。

 

そこで僕の好きなイギリスの音楽を紹介したいと思う。

 

まず、僕はHIPHOPがやっぱりすきなのでHIPHOP関係から

まず最初にstrange Uを紹介したいと思う。starange Uは最近のHIPHOPグループの中で僕は一番好きだと思う。

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とにかくこの曲がかっこいいからめちゃくちゃ好きになった、ほかの曲もかっこいいけれど、やっぱりこの曲が一番好き。この人たちはおそらくゲームとかアメコミが好きなんだと思う。なんかスマブラとかに出てくるファルコンのファルコンパンチという声をサンプリングした曲もある。

strange Uの曲を作っているdr zygoteが単体で作っている曲もかっこいいのだけれど、なんかかなり狂っているような曲を作っている。

 

次にMr Woodnote & Eva Lazarus

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mr woodnoteが自分の口とかサックスで作る曲はとてもかっこいいしEva Lazarusのラップもかっこいい。mr woodnoteの曲はどれもかっこいいと思う。

 

次にメランコリック系のlapalux

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僕はメランコリックな曲が好きなのだけれど、メランコリックでしっかりといろいろな曲を聴いているアーティストはlapaluxだけかなと思う。ちょっと気分が沈んでいるときに聞くととても気持ちが良い。

 

そして、次にこれはメランコリック系というのかわかんないけど、Andy Stott

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キモイかもしんないけど、これをイヤホンで聴くとなんか最高な気分になる。

この曲とかどうやって音楽作っているのかなーと思う。サンプリングなのかな?と思う。

 

そして有名かもしんないけどfloating pointとfour tetの曲を紹介したいと思う。この二人もイギリス人、やっぱりイギリスさいこーと思う。

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ほかにもあんま聞くわけじゃないけどハドソン・モホークやレディオヘッドもイギリスの人達、アデルやエドシーランもイギリス!

なんて素敵なんだろう、イギリスの音楽!

 

 

 

東浩紀に告ぐ 動物化するポストモダンについて

動物化するポストモダンを再読してみた。もとからアニメをそんなに見るわけでもないし、アニメ文化について、そんなに興味がなかったので、よんでもあまり覚えていなかった。

 

ただ、なんとなく再読してよんで気づいたことがある、この本はかなり間違っている。こんな本が売れて、みんなに知識の前提として共有されていいわけがない。

まずこの本のタイトルになっているポストモダン動物化という議論だが、これは本当にそうなのだろうか?ポストモダンは本当に動物化しているのだろうか?

 

東はデータベース的消費という消費者側の視点や、データベースによる作り手側の作成の構造などについていっているがこれは前者と後者について、それぞれ議論すべきなので、わけて考えようと思う。

まず、前者について東はオタクたちは動物的にデータを消費するといい、また現代では倒錯的なイメージで性器を興奮させることに単に動物的に慣れてしまっているという、萌えや猫耳という刺激だけで性的に興奮するように訓練されているとまで言っている。

確かにそういったことはある、またはあったと思う。

しかしだ、本当に現実はそういった刺激と反応図式のようになって萌えに興奮したりしていたのだろうか?または、萌えというデータだけを動物的に消費しているだけなのだろうか?おそらく現実はそんな風になっていない。

この人はオタクたちのためや、オタクのことを考えているという風な態度をとっているが、この本に関していえば、オタクたちをかなりバカにしているだけなのだ。

 

これが前者についての僕の感想である。

 

そして後者についてはデータベース的な作り手側の構造の分析についてである。これについては筆者は僕が先にいったような前者と後者のように議論を分けて考えるべきなのに、なぜかうまいこと何も言っていない笑

 

僕の言ったような後者の議論でいえば、作り手側のデータベース的なものの作成など当たり前である。アニメが始まったときは小説や現実などのデータベースから発想を引き出していただろうし、刺激のない状態からものなどつくることはできないとひろゆきさんも言っていた。これは当たり前のことなのだ。そしてこれは、とても人間的な思考方法である。人間の記憶力や発想力に依存するのでとても人間的すぎるのである。

 

おそらく、これは僕の単なる思い込みなのかもしれないが、東はどうしても現代を動物化していると思いこみたいのだ。人を馬鹿にしているだけとも言える。

 

コピー作品のアウラうんぬんについてもよくわからない議論を展開しているが、コピーかオリジナルかなんて、アニメや漫画の世界ではだれの目にも明らかだよ大馬鹿野郎と思う。

 

僕なりの理解ではあるがアウラという議論は複製が簡単であったり、贋作が写実的に簡単なものの芸術の世界で必要になってくる議論だと思う。

 

オリジナルとコピーという議論に関係するような話ではあるのだが現代の二次創作文化について知りたいのであれば、ローレンス・レッシグのREMIXを読めば良いと思う。RO文化RW文化として現代のYOUTUBEで起こっている現象などを理解したほうがよっぽどわかりやすいし、二次創作で起きている現象についてちゃんと把握することができる。

 

また大きな物語、小さな物語についての議論もかなり間違っているようにおもえてならない。オタクたちにもともと大きな物語なんて存在しないのでは?と思う。大きな物語に乗れないからこそ、オタクをやっているのではないかと思う。つまり、オタクと呼ばれる人たちが出現しだし、増えていったので大きな物語が必要なくなったため、データベースから大きな物語がなくなったのではないか、ということである。

それについて東はデータベースの深層には大きな物語がない以上データベースは意味をあたえてくれない。といっている。かつてのアニメに大きな物語が存在し、それを共有することがあったとは思う。ただ、アニメ文化が広く、一般の大衆に普及し、オタクと呼ばれる人たちが増加しだした現在、彼らに大きな物語は必要がなくなったためアニメや漫画では大きな物語がなくなっといえるのではないだろうか。

 

すべて読み直したわけではないが、僕からこの感想を言えば、これもまたしっかりと読んだわけではないので適当なことは言えませんが、まさに東大話法なのではないか?と思う。(東大話法という本があるのです)

 

またじっくりよみたいと思いはしないが、この本はんなわけねぇだろということがいたる所にある、この本は現代が進むにつれて、話している内容がどんどん色あせてしまっているし、そうそうに忘れてぶん投げてしまったほうがよい笑

 

ポストモダン動物化しているという議論はあるのではあるだろうけど、この本ではその真偽はわからないと思う。ただ、である、動物化という定義は僕は衝動性が強くなってしまっているような状態や、パブロフの犬のような刺激と反応図式になっている状態だと思う。依存状態を動物化と呼ぶのは結構はてな?である。動物は依存なんてあまりしないように思うからだ。サルはするかもしれないが、それも霊長類的ではあるかもしれない笑

このことについては、自分達がアニメや漫画をみるときに引き寄せて考えてみるとわかるかもしれない。オタクであれ、なんであれ、現代の人々がアニメなどを見るときにただデータベース上の記号のようなものを消費しているだけなのだろうか?ある特定の刺激に特定の反応をしているだけだろうか?このある刺激にある特定の反応をするということがパブロフの犬のような刺激と反応であり、動物的であると思うが、ここのこのシーンが~だから萌える、このシーンが~だから気持ちいいという、こういった動物的というよりむしろ人間的といえる反応を僕たちはしているのではないだろうか?それは脊椎反射的な、ある刺激がくれば、ある特定の反応ではなく、ある刺激の間に人間的な思考が挟まれ、そして、特定の感情、萌えるや気持ち良いという反応を僕たちは示すのではないかと思う。

 

ポストモダン動物化しているという議論について、僕の言っている動物化の定義をあてはめてみれば、Twitterでは、こういった刺激と反応や衝動性が強くなっているという事態が起こっていたと思う。 衝動的にツイートしてしまうということ、ファボやリツイートなどをパブロフの犬のような刺激と反応によって行っているという事態が少し前のTwitterではかなりあったように思う。

 

 

もう読む必要はないかなーと思う。反論がある方はもう一度しっかり僕が再読してもいいので、なにか違うと思うのであればコメントをお願いします。

 

 

苫米地英人、宇宙を語るについて

僕の苫米地先生の本について買った本のなかで、苫米地英人、宇宙を語るという本が、あります。この本は不思議なことについていろいろとかかれているようにおもいます。

ただ、普通に考えるといろいろと疑問に思うことがあります。

まずインテンショナリティという概念についてです。

苫米地先生は意思が反映されている方がオリジナリティがあって、もしテレポーテーション(おそらくテレポーテーションがあるとしたら量子テレポーテーションだと思う)があったら意思が反映された方にオリジナリティがあり、コピーされたり、量子テレポーテーションをはじめにしたほうはけされなければいけないといっています。

ただこれは超こわいと僕は思うのです。

なぜなら意思の反映うんぬんが重要なのではなく、意識の連続性が重要だと思うからです。

量子テレポーテーションまたはコピーされて、コピーされた側が消されるとしたら、そのコピーされた側は死んでると一緒ではないでしょうか?

おそらくですが、コピーをはじめにしたがわとコピーされてできたがわの間に意識の共有なんてありえないし、共有されてたらマジで意味不明になると僕は思います。共有が起こっていなかったら元のコピーされた側は死んだと同じことになってしまうと思います。

意識の共有がおこっていたとしてコピーや量子テレポーテーション量子テレポーテーションでは意識の共有なんておこらないと思いますが。おそらく僕の理解では量子もつれから量子テレポーテーションはできるからです)ができたとしたら、消されるのはどちらもこわいので、おそらくコピーがおこったら何人も消されないまま残るようになると思います。

このインテンショナリティという概念は、僕はしらないのですが哲学的議論の一つなのだと思います。

 

それと未来から過去に時間が流れているという苫米地先生がよく本に書いてあったりする話があります。これは不思議に思うこともあるのでしょうが、苫米地先生も哲学でもこう考えなければいろいろと不都合が起きるといっていたのでこれは正しいのだと僕は思います。

そんなわけないじゃん!と思う方も結構いると思います。ただ、僕は未来から過去に流れるのは当たり前じゃん!とも思います。

だって自分たちは未来にむかっていきてるじゃん!と思うひともいるもいると思いますが、時だけについて考えれば、自分の過去は後ろのほうに流れていくだけなので当たり前ではないでしょうか?

 

未来の人についても苫米地先生はいっていますが、これもおそらく思考実験だとおもいます。

ここで最初のほうに書かれている文について苫米地先生の文を引用したいとおもいます。体を失い、情報状態だけになった人類にとっての宇宙というのは、その人が好きなものだけを集めて勝手にストーリーを作りあげたものです。

その後、そういった人は次第に飽きてきてさみしくなって宇宙を作るとも言っています。

ただ僕はそれについてはふざけんな!と思うのです。未来の人がいてもしそれで宇宙を作ったとしたら超自己中です。

自分だけ散々好きな思いをしたくせに、果てはさみしいから宇宙まで作るってどんだけ自己中心的なのでしょうか?

苫米地先生はそれくらいわかると思うのでこれはやっぱり思考実験なんだと思います。

 

それと最後にアプリオリについても、アプリオリというものは苫米地先生は最初から正しいものといっていますが、僕は先験的なものであるという風に理解しています。そしてカントもおそらくですが、カントをまだよんでないので適当なことはいえませんが、カントはそういう意味でアプリオリについて言っているのではないかと思います。

最初から正しいものは不完全性定理不確定性原理などを理解すれば、ないのかもしれません。

ただ、です、アプリオリを最初から正しいものと定義したとして、不完全性定理が数学全般にはたらいたとしても僕には最初から正しいものもあると思います。

それは科学などいろいろなものが最初から正しいのでは?とも思うからです。それについてもいろいろあるのでしょうが、今の僕にはわかりません。

アプリオリを日本語に訳すときにどう訳すのかという問題になってくるのだとおもいますが、僕はやっぱりアプリオリは先験的なものだという風に訳すのがただしいと思っています。

まだまだ、勉強したりないことはあるのでしょうが、間違っていると思う方は指摘してくださると大変たすかります。